名鉄乗りまわし旅(part2)



2月11日


1.岐阜の路面電車線の旅(1)

 朝は、昨日と同じで、6時09分岐阜行きの急行に乗った。昨日と同じ車両だった。パノラマスーパーの間合い車両であった。ここでまず最大のヤマは岐阜駅で路面電車に乗ることが気になった。暗い景色を見ながら、ダイヤどおり着けよと願っていた。定刻どおり岐阜に着いた。すぐにダッシュした。もちろん間に合い、路面電車の安全地帯の岐阜駅に入った。そしてしばらくしてから黒野行きの普通が来た。

定刻なのだろうか、6時36分に出発した。新型のロングシートの車両だった。音が普通の電車と同じだ。加速も速い。乗客はマニアばかりが多かった。しばらくしてから長良川を渡り、路面区間が終わって、普通の線路になると、すぐに忠節駅に到着した。ここで5分の停車があった。忠節駅は3面5線の大きな駅だった。なんとこの駅には懐かしい昔の路面電車があった。久しぶりに見た。5分の停車時間は意外と長かった。乗客は全く変わっていなかった。


2.揖斐、谷汲の旅

 忠節からは普通の電車のようにスピードを上げた。といっても70キロくらいだけど…。 反対側の列車は岐阜に向かうせいなのか混んでいた。終点黒野に着いたのは7時23分。2番線についた。黒野駅は2面3線のホームだった。ここが名鉄で一番西の有人駅だろう。

すでに次に乗る本揖斐行きが1番線にいた。すぐに線路を渡り、揖斐行きに乗り込む。乗った客は黒野行きに乗っていた客がほぼ全員乗っていたのだ。車両は、なんと大正生まれの車両だ。すごい!木張りだ。しかもクーラーはない。しかも暖房もあるのか?というくらい車内は冷えていた。寒かった。運転台を見ると、タブレットがあった。一閉塞区間なのだ。先ほど乗った、折り返しになる岐阜行きの普通は結構混んでいた。先にベルが鳴って岐阜行きは出発した。

その後、駅員が1番線に来た。何だろうか?と思っていると、「発車!!」と駅員が言うと、運転手がマスコンを引いた。音が昔のモーター音。妙に懐かしい。揖斐線は、60キロくらいのスピードで出していた。黒野〜本揖斐間は各一駅間の間隔が長い。架線の支柱は木だった。

終点の本揖斐駅には、7時37分に到着した。運転手に切符を見せた。なんとどの乗客も2dayフリー切符だったのだ。本揖斐駅の駅舎はボロかった。まもなく廃止となるからすぐにつぶされるのだろう。ここで、カメラを撮り、再び乗り込んだ。折り返しの列車には、地元の客なのだろう。数人乗り込んできた。ロングシートはたちまち混んでいた。

7時42分何も合図をせずに出発した。そして、黒野に着く前にもっと昔の車両が置いてあった。その車両は、転換クロスシートだった。いいなぁと思っていたが、かなりボロだった。そして、終点の黒野には7時51分に到着した。ここでしばらく時間があるためにトイレタイム。そして、7時55分過ぎに谷汲線から折り返しとなる列車が来た。かなり乗っていた。扉が開くと、次々と岐阜行きに乗り換えていく。本揖斐行きと同じ車両であった。ここにもタブレットがあった。すぐに一番前に乗り込んだ。これもロングシート。客は、岐阜からずっと乗っていた客が半数、そして、今岐阜から来た列車から乗り込んできた客が少しいた。

7時58分に駅員の出発の合図のかけ声とともに発車した。揖斐線の本揖斐行きも同時に出発していた。谷汲線は揖斐線に比べてスピードが遅かった。時速は40キロだろう。この谷汲線も揖斐線も風景がいい。本当にのどかな感じがした。途中北野畑から根尾川沿いを走り、かなりいい風景だった。そして、太陽があたらない所は雪が残っていた。結構山に入ってきたのだろう。北野畑〜更地間は軽い山越え区間だった。山岳ムードであり、スピードもさらに遅く、かなり電車は頑張っているようだ。昔は行き違い駅だったという面影のある駅があった。かつての谷汲線の反映がここで物語っていた。谷汲に近づくと線路にも雪がたまっていた。そして終点の谷汲に着いたのは、8時21分に着いた。

谷汲の駅は、駅舎が新しかった。まもなく廃止になるのに、この施設はどうなるのだろうか?すぐに駅名を撮り、折り返した。乗客も余り変わっていなかった。帰り道はいいポイントがあったのだろうか?マニアが途中の駅で降りていく。そして黒野には、8時44分に着いた。

すぐに乗り換える岐阜行きが待っていた。しかも混んでいた。朝乗っていた車両だった。乗り込むと出発した。しかも駅に着くたびにたくさん人が乗り込んでくる。途中の駅からは、臨時の車掌が乗り込んできた。精算に慌ただしい。忠節の手前のあたりなのだろうか?いつの間にか臨時車掌が消えていた。忠節についても客は全く降りずに満員のままだ。このまま眼をつむって、岐阜駅に着いたのは、9時30分だった。このまままたダッシュして各務ヶ原線のホームへ向かう。ここに美濃町線のホームがあるからだ。


3.美濃町線の旅

 岐阜駅に着くと、すでに関行きの列車が止まっていた。ロングシートの2両編成。昔の札幌の路面電車の車両であった。ある程度席が埋まった9時38分に出発した。ここは、電車でGO!の逆バージョンだ。スピードは60キロ位。どの駅でも乗り込んでくる人はいなかった。北一色と野一色の間は、神社の真ん中を線路が通っていた。均一料金最後の駅日野橋に着くと、あまり乗客はいなかった。

しかし、驚いた事は黒野、揖斐、谷汲とまわってきたが同じ行程をきていた人がまだいたのだ。これにはさすが驚いた。岩田付近に来ると、もはや田園風景が広がっていた。時速は60キロが最高らしい。上芥見付近では路面区間があった。白金などポイントがある駅ではタブレット交換をしていた。ここから一閉塞区間だ。ここから信号機が無かった。行き違い駅の各駅には反対列車が待っていて、運転手がタブレットを交換していた。そして新田駅に来ると、もう関市に入っていた。

新関に着くと、ほとんどの客が降りていった。ここで少し停車して出発した。どこで旧美濃線がなくなるのか見たかった。しかし、左に大きくカーブしてからすぐに大きな道路を渡たった。渡って少しカーブするとそこが関駅だった。何か強引に引っ張った感じの駅でホームは安全地帯みたいな感じの質素な駅だった。すぐ隣には長良川鉄道の関駅があった。

すぐに新関へ向かう事にした。道路を渡り、どこで旧線がなくなったのか見ようとしたが、結局どこでなくなったのか知らなかった。あとで聞くと、ここの道路沿いを旧美濃町線は走っていたということだった。10時40分過ぎに新関駅に着いた。この新関は美濃線では大きな駅で唯一の有人駅だ。3分位たって到着した列車は、2000年に出来た車両だった。新型のクロス型のシートだった。一番前に座った。なかなかいい車両だった。これで野一色駅までいった。この美濃町線は危ない感じだ。やたらと踏切の遮断器や警報機が無かった。これでは運転手がやたらと警笛を鳴らすわけだ。

野一色で徹明町行きに乗った。これはボロ。しかし、クーラーがあり改造されていた。途中の駅、競輪場駅では乗務員が交代した。どこに乗務員がいたのだろうか、新しい人が乗り込んで出発した。そして、徹明町には11時38分に着いた。ここから名鉄の新岐阜駅まで徒歩で行った。今度は、各務ヶ原線に乗り、犬山へ向かう。



4.もう一つの岐阜県の廃止線八百津線

 11時45分過ぎに岐阜駅の各務ヶ原線のホームへ行った。ちょうど内海行きの急行が来た。通勤車だった。混雑はしていなかった。6両編成だった。途中の駅では、後ろ2両が扉が開かないほどせまいホームがあった。途中の三柿野までは普通だった。乗客は全くいなかった。三柿野駅は、昔は、三柿野行きというのがあったが今は無いのだろうか?ポイントが無かった。そしてここから急行になりスピードを上げる。新鵜沼に着いて、やっと乗客が乗り込んできた。犬山橋も通過し、犬山に着いたのは、12時25分だった。

ここから広見線の旅になる。きたのは常滑始発の通勤車が来た。今まで急行だったが、ここから普通の御嵩行きになる。6両編成で来た。ここで前2両が切り離された。しばらく停車した後の12時34分に方向を転換して出発した。ロングシートであった。しかし、客は少なかった。善師野駅から西可児駅の間がすごく長かった。この区間には県境トンネルがあったが、ここがこの間の中間点の感じだった。岐阜県に入って西可児駅に到着した。だんだんと客は減っていく一方だった。この辺りから一駅の区間が長い。

新可児駅に着いた。JRの可児駅とは少し離れていた。2面3線の駅だった。ここから学校前、顔戸、御嵩口の小さい駅がなんと2両分しかホームが無いのだ。これには少し驚いた。新可児駅には3分ぐらい運転停車していた。ここでも方向を転換して出発した。明智駅には13時03分に到着した。この駅は2面3線の駅だった。扉が開いてすぐに八百津線のホームに向かう。と言っても隣のホーム。

まだ、八百津行きはきていなかった。まもなくして、ディーゼルカーが来た。昨日三河線の吉良吉田行きに乗った車両と同じだ。すぐに乗り込む。乗車率は半分ぐらいだった。13時06分御嵩行きと同時に出発した。すぐに左カーブして広見線から離れた、すぐに架線がなくなった。すでに周りは山の風景になっていた。スピードも60キロだった。兼山口、兼山、中野は本当に小さなホームだった。すぐに発車した。次の兼山駅では昔は行き違いの駅だったのだろう。この八百津線にもトンネルがあった。しかし、ここはトンネルの出口で一旦停止していた。なんとトンネルの出口には水滴がダラダラと流れていた。この水滴の手前で止まった。中野を出ると、木曽川が見えていた。

そして架線の支柱が無くなった八百津駅には13時18分に到着した。1面1線のホームであり、駅員もいた。昔は繁栄していたのだろう。1面の線路を残してあとの構内は一面の花壇があった。ここもまもなく消える路線である。以前ここを昔はパノラマカーが走っていたというが、パノラマカーに乗って来たかった。しかし、もうその夢は、はかなく消えて、廃線となる。さっきと同じ乗客が乗っていた。新しい顔といえば数名の高校生が乗り込んでいた。

13時22分に出発した。もうこの路線には、二度と来ないだろう、というよりなくなってしまうからだ。13時34分に明智に到着した。すぐに踏切を渡った。まもなくして御嵩から折り返した、常滑行きがきてそれに乗った。

この明智駅には八百津行き、御嵩行き、犬山方面行きが3つ同時に並んだ。そして同時に出発した。しかし、八百津行きだけが少し遅れて出発したようだった。常滑行きは空いていた。そのためにロングシートにもたれて長くなった。久しぶりのくつろぎだ。ロングシートにしてはよい旅だった。犬山で2両増結して出発した。まだ昼間だったのか名古屋に着いても電車は混んでいなかった。すぐに豊橋行きの特急に乗り、知立へ向かった。次は、三河線の旅になる。


5.三河線山線の廃止になる?ローカル線

 新名古屋駅に着いたのは、14時46分。そして14時49分の特急に乗る。混んでいたが補助席に座った。知立には、15時08分に着いた。ここで昼飯と考え、立ち食い店へいく。食べ終わった後、岐阜行きの特急の指定券を買った。

時間に余裕があり、予定より1本早い猿投行きに乗った。きたのはパノラマもどきの貫通型タイプだった。2両編成だった。久しぶりの転換クロスシートだ。じっくり楽しむ事が出来た。次の三河知立駅は旧三河鉄道の終着駅だったという面影があった。構内が広いということが往時を忍ばせる。三河知立を出て次の三河八橋は知立市ではなく、すでに豊田市になっていた。そのためなのかすぐに田園地帯が広がった。混んでいた車内も少しずつ減っていった。土橋駅には地下鉄用に通勤車があった。この駅でまとまった降車があった。ほとんどの反対列車は転換シートの車両だった。通勤車は一回しか見なかった。

それにしても行き違いの駅では必ず反対の電車がいた。本数が結構あるのだろう。上挙母駅を過ぎると、高架になった。豊田市駅に着くと、大きく入れ替わった。梅坪で豊田新線と離れてそのまま高架を走っていく。越戸駅も高架駅だったが、なんか新しく、ホームも長かった。越戸を過ぎると、徐々に下っていく。平戸橋で半分以上が降りていった。

そして、猿投駅につき、しばらくすると、すぐに西中金行きが来た。ちょっと古いディーゼルカーが来た。それに乗り込んだ。すると、さっき八百津線に一緒に乗っていた人がいた。これには驚いた。どのようなルートで来たのか?少なからず、一緒の列車にはなっていないはずである。まだ時間があったためにボーッとしている。するともう一本後の列車がついた。その列車から西中金行きに乗り換える人が多かった。たちまち満員になった。

16時14分に出発した。猿投駅を出ると、一気に山へ入っていく。すごい変わり方だった。架線も柱もあっという間になくなっていた。前にへばりついている客が多いためになかなか前が見えなかった。三河御船、枝下、三河広瀬、西中金とこの駅は本当にレールバス専用の感じがする小さな駅だった。途中枝下駅付近では、矢作川沿いをはしり、枝下駅を出てしばらくすると、矢作川を渡った。橋から見渡す景色はきれいだった。渡り終わると、また山奥に入る。三河広瀬を出て、トンネルを2つくぐると、架線の支柱が出てきた。そして、国道153号線が見えると、終点の西中金駅に着いた。

この駅も1線だけになって、あとは荒れ果てていた。ここで足助に向かう人と歩いてどこかに消える人と折り返す人とはっきりと区別されていた。15分近くの空き時間があるため事前に知っていた、コンビニに向かい、えさを求めた。すぐに買い物を終えて、戻ると行きに乗っていた客の半分ぐらいが折り返しの列車に乗っていた。

新たな客も少し乗せて16時43分に出発した。猿投駅に近づき一気に住宅街のなるのも、驚くものである。猿投には、16時58分に着いた。隣のホームに停車中の通勤車の知立行きに乗る。ガラガラだった。豊田市では入れ替わりもなくあまり変わらかった。終点の知立には17時39分に着いた。次は、一気に岐阜へ特急に乗って飛んでいく。


6.廃止になる竹鼻線

 17時45分に新岐阜行きの特急が来た。座席は確保してあるので、安心して指定席に乗る。この列車でゆったりとくつろいだ。やはりリクライニングシートは良い。名古屋駅に着いたらさすがにかなり乗り込んできたが、満席になる事はなかった。そして、快適だった特急の旅も18時31分に岐阜に着き、終わったのだ。ここから大須行きの急行に乗る。きたのは2+2両の4両編成の通勤車だった。18時47分岐阜駅を離れた。

反対列車なのか空いていた。笠松までは急行、そこから先は普通だった。しかし、知多半田行きの普通が先発していたので遅いのか?いつも注意信号に引っかかっていた。そのためにスピードは全くでなかった。笠松でまとまった乗客が乗り込んだ。そしてすぐに出発した。単線なのだが、行き違い駅には必ず反対列車がいた。途中の駅では切符を買っていない奴がいて、車掌がそれを発行していたために一気に遅れてしまった。時間を見るとかなり遅れていた。車掌が何度もお詫びの放送をしていた。

羽島市役所駅に着くと、駅員がタブレットを渡した。ここから一閉塞区間になるのだ。遅れは縮まらずに出発した。ここからはすべて無人駅だ。すぐに江吉良に着いた。1面の無人駅だった。すぐに羽島新線が分岐して離れていく。ここから信号機が無くなった。そして、大須以外の駅は2両分のホームしかないのだ。しかもすでに乗客はガラガラになっていた。さみしいまま終点の大須には19時30分過ぎに着いた。ここ大須の駅も一面の駅だった。待っている乗客がいた。

遅れてきたので不安になるのではないだろうか。乗る人は少しだった。乗務員たちも慌てて準備をしてすぐに出発した。まだ遅れているのだろう。ここでもお詫びの放送をしていた。後ろの2両にいたので、大須〜江吉良間は扉が開かないので、暖かいままだった。この区間はもうすぐ廃止になる。ちょっと寂しい気持ちがあったまま、羽島市役所に到着した。遅れは回復していない。反対に大須行きの普通があった。なんと転換シートの車両。やられた。もう一本あとにすればよかったとこのときに思っても、もう遅かった。列車は遅れたまま、笠松についた。

名古屋方面のホームを見ると、なんと予定していた列車の豊川稲荷行きのパノラマカーがちょうどいってしまった。これで、予定していた尾西線の玉ノ井にいけなくなった。あきらめる事にして、次に乗る豊橋行きの急行に乗った。最後は、パノラマカーであった。客はいたのだが、この駅で半分以上が降りていった。ガラガラになって発車した。前のシートを転換させて、足を前に投げ出した頃にちょうど木曽川を渡った。そして、20分もたたないうちに新清洲に到着した。思えば、かなり乗っていた。久しぶりに乗った路線もあった。今度こそは、全線を制覇する事を夢見て終了とする。







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